=活動目的=


 ・日本における国家や政治と教会の関わりを、聖書と神学の視点から

  研究します。

 ・現在の日本の状況を踏まえ、教会がこの時代に担うべき神学的課題

  として整理します。

 ・整理された神学的課題を広く一般に提供します。

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2017年6月1日木曜日

第2回例会 「責任倫理の担い手としての『われ』と『われら』」

5月26日におこなわれた「教会と政治フォーラム」第2回例会は、31人が参加しました。朝岡勝牧師(日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会牧師)が、「責任倫理の担い手としての『われ』と『われら』」と題して発題。発題を受けてデイスカッションで深めました。
 次回第3回例会は、714日(金)午後6時半から。発題は星出卓也牧師です。
 詳細が決まりましたらご案内いたします。

<発題の要旨>

 教会が「政治的」な事柄に関わろうとする時、あるいは関わらざるを得ないような時、その場合の主体は誰なのか、という問いがある。『教会が政治も含めた「倫理的な課題」にどのように関わることができるのか、その課題の担い手になるのは誰か』という問いを投げかけた。
 この問いを、マックス・ウェーバーの「心情倫理」と「責任倫理」の概念から考え始め、ディートリヒ・ボンヘッファーが行った講義をもとに編纂された二つの著作、『服従』(1937年)と『倫理』(1940〜43年)を掘り下げて考察。
 さらに、教会と国家の関係性と区別性について、どのように考えたのかを「ドイツ福音主義教会の現代の状況に対する神学的宣言(通称バルメン宣言)」(1934年)の第五項を見ることによって明らかにした。
 最後に、再びボンヘッファーの『倫理』に立ち戻り、責任倫理の担い手としての「教会」について考えた。
 暫定的なまとめとして、以下に5点を挙げた。
1、教会は、政治や国家の課題に対して、結果責任を負わない心情倫理としてでなく、むしろアクチュアルな課題として引き受け、祈り、奉仕するとともに、時には注意を喚起し、警告し、時には「新たな選択肢」(オルタナティヴ)を示す責任倫理の担い手とされている。
2、責任倫理の担い手としての教会は、「十字架の下にある服従する者の教会」として、キリストへの服従において方向づけられ、「地の塩・世の光」としての役割を果たすことで、その責任を担う。
3、責任倫理の担い手としての教会は、「究極のもの」すなわちキリストの義認によって生かされるゆえに、「究極以前のもの」すなわち現実の社会の中で、福音宣教とともに、責任倫理の実行とによる政治的参与の使命を果たす。
4、責任倫理の担い手としての教会は、「神の御前」における罪の認識と告白において「われ」と「われら」が一つにされた「教会という全体的な『私』」である。
5、責任倫理の担い手としての教会は、罪の認識と告白から出発し、それを引き受け、キリストによる赦しに与ることでその責任を果たすゆえに、政治や国家の課題も、神の御前にあって罪の赦しを必要とし、それゆえに教会が赦しを求めて引き受ける課題なのである。

<発題を受けてのデイスカッションから>

「自分の所属教団の創立宣言での戦争中の罪責告白を顧み、日本のプロテスタント教会は『出エジプト』をしないといけないのではないかと痛感」、
「日本にある公同の『教会』として、日本の中で生かされているキリストの民として、『責任倫理の担い手』になることの自覚。『地の塩・世の光』は、なりたくてなるとかではなく、なるものとされている。その生き方を身につけることが必要」、
「小さな群れでもイエス・キリストの身体である、ということを語っているのかどうかを問われた。講壇から『教会とは何か』、を語ることが必要なのではないか」、
などの声が出されました。
また、「国家がその委託と使命を放棄し、暴走しているというと、それは『心情倫理でしょう』と言われる。その判断の分かれ目はどう考えるか」との質問には、「『信仰告白の事態』と認識するときは、実際は事態がかなり進んでしまっている。せめぎ合っている現実の前で、絶えず線を引きなおす必要があるのではないか?」。その判断の線として、「隣人がないがしろにされていることを見逃してはならない。」など、現実に引き付けての具体的かつ有意義な意見交換となりました。